松尾画報

辺境のカンガルーの近況

文学研究

前回の続き的なお話。

 

こういうことがあるから、というわけでもないんですが、

大学では「作家研究は基本、故人になってから」という習い方をしました。

文学研究にもいろんな形式やら派閥やらがあるでしょうし、

もちろん存命の現代作家だって進行形でしっかり研究されますが、

「故人になってからスタイル」も確立されていると思います。

 

私の2回生のときのゼミの先生が、まさにそんな人でした。

かつ、研究対象作家の、存命時の新聞や雑誌や講演などでの発言を掘り起こし、

時には作家本人の発言まで否定できるほどに、本人とその周りの資料を調べたおす先生。

 

 

 

作家Aは昭和◯年◯月◯日発行の雑誌◯◯での連載エッセイにおいて、

 

「執筆の3年前に故郷に来たサーカス団の象を見て、この小説の着想を得た」

 

と語っているが、昭和◯年◯月に◯◯町にサーカス団が来たという事実は確認できない。

昭和◯年◯月に東京・上野で見たサーカス(作家Aの日記に綴られている)と勘違いしているか、

もしくは、故郷にサーカス団が来たと「意図的に」嘘をついているかのどちらかだ。

 

では、ここでは意図的に嘘をついていると仮定しよう。

なぜAはそんな嘘をついたのか、またその嘘が意図的だったという根拠はどこにあるのか、

その意図的にねじまげられた着想設定が作品に与える影響は何なのか、

この論文ではそれをこれから証明する。

 

 

 

みたいな感じでした。面倒そうな先生でしょ?

でも、こういうのも文学研究のひとつの手段。

「刑事みたいな証拠集めするな、この先生」と思ったものです。

「やべぇ、俺、やっぱり文学研究に興味ないかも」とも思いました。

結構みんなそんな感じだったんじゃないかな、あのゼミは。

 

実際には文学研究にはいろんなやり方があって、

卒論のときのゼミの先生は、もっと私好みのマイルドなやり方でしたが。

2回生のときの先生のゼミのままだったら、留年してたかも。

そうなったら今とはまた違った人生だったかも。

もしくはなんだかんだで、同じような流れをたどって結局この人生かも。

 

なんにしても、文学は好きなように読むのが一番です。

いろんなやり方がありますよねぇ、何をするにしても。