松尾画報

辺境のカンガルーの近況

春の人

春になると思い出す人がいます。

 

以前勤めていた出版社に出入りしていた、フィルム屋の営業さん。

毎日決まった時間に来て、撮影済みフィルムがあれば回収して、

翌日に現像したポジフィルム写真として納品してくれます。

特殊なフィルムや、同じロット番号のフィルムが大量に必要なときは、

この営業さんに口頭でお願いし、前もって確保したりしてました。

 

ある年の春、担当が変わるということで、

前担当と新担当の方が一緒に挨拶に来ました。

今年度からは彼が回収に回るのでよろしくお願いします、と。

 

メガネをかけた柔和な営業さんで、フィルムや機材周りの知識もあり、

まぁフツーに引き継いで無難に仕事こなしていたんですが、

私たち編集部員全員が、どうしても気になることが一点だけありました。

 

フィルム回収を終えて部屋を出ていくときの挨拶が、

「ありがとやんした~」なんですよね、どう聞いても。

その方、それ以外の言葉は全部普通なんですけど、

「ありがとうございました」だけがどう聞いても、

「ありがとやんした~」なんです。そこだけは毎回、絶対に「やんした~」。

 

もうこれが、編集部みんな、笑いのツボにはまっちゃってですね。

でも笑うのもちょっと失礼かなと思うので、毎日笑いを堪えます。

下を向いて肩を震わせている者、無理やり咳をしてうやむやにする者、

資料を探すふりをして背中を向ける者、ぐっと奥歯を噛んで感情を押し込める者。

木を隠すなら森とばかりに最初からちょっと笑っている者、などなど。

 

目線を合わすと笑いの渦に飲み込まれちゃうわけですが、

「ありがとやんした~」の声に何も応えないわけにもいきません。

みんな笑いを押し殺しながら「…っりがとござまーす!」と声を絞り出して返します。

 

あそこまで継続して笑いを堪え続けた日々って、よく考えたら他にないですね。

春が来るたびに思い出します、あのやんしたお兄さん。

思い出すと今でも反射的に笑いがこみあげ、そして反射的に堪えちゃいます。